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鈴鹿サーキットの設計者 はジョン・フーゲンホルツ氏である。

Racing on 461号塩崎定夫氏発言へのフーゲンホルツ家からの反論 
2012年、鈴鹿サーキット開場50周年の年にRacing on 461号(三栄書房)に塩崎定夫氏がフーゲンホルツ氏を侮辱する発言を掲載しました。これに対してフーゲンホ ルツ家は反論の手紙を編集部に送りました。そ し てその手紙はRacing On 462号に掲載されました。手紙は巻末に小さく掲載されたため、お気づきでない方もおられるかもしれません。 事の重大性を鑑み、その手紙を下記に掲載しま す。
 日本では知らされてこなかったフーゲンホルツ氏のホンダへの寄与がいくつも記されています。
(1) 本田宗一郎氏をオランダDAF社へ案内してベルト駆動を紹介した。これをもとに本田宗一郎氏はS600をつくった。
(2) ホンダのF1研究に必要なクーパーF1シャシーを本田宗一郎氏のもとへ送った。
(3) ジョン・フーゲンホルツ氏がジャック・ブラバム氏を本田宗一郎氏に仲介した。
(4) 第一期ホンダF1活動への支援を行なった。
 塩崎定夫氏が設計者ではなく工事の責任者であることはジョン・フーゲンホルツ氏自身が書かれた日本での行動記録 に もしっかりと記載されています。
フーゲンホルツさんの日記のなかで記述される塩崎定夫氏の役割はフーゲンホルツさんへの接待とブルドーザーの手配のみです。

私は塩崎定夫氏のインタビューを掲載したレーシングオンを読みました。そこで氏は自身が鈴鹿サーキットのデザイ
              ナーであることを主張し、父は「名前貸し」「権威づけ」に利用されたと述べています。鈴鹿サーキットのデザイナーは彼ではな
              く私の父、ジョン・フーゲンホルツSr.です。私は彼の主張は間違っていると思います。彼はこれまでそんな主張をしてごな
              かったのに、なせそれを今になって急に主張するのでしょう?私は塩崎氏の記憶について、重大な疑問を抱かざるを得ません。
              誌面の内容に触れます。父はJAFとの接触をまったく持っていませんでした(編集部注:鈴鹿サーキットのオープンは1962
              年9月20日。JAF正式発足は1962年10月24日。JAF一般業務開始は1963年4月1日)。また日本の政府系機関
              とも接触を持っていませんでした。とにかく相手は本田宗一郎氏だったのです。氏は父に単純明快な文章で電報を送ってきまし
              た。「日本へ来てください」と。2週間後に航空券が届き、父は数週間、日本に滞在しました。塩崎氏はサーキット施工などのマ
              ネージャーにすぎません。彼の描いたというコース図案は、実際のサーキットではまったく役に立たないとして、すぐに捨てられ
              たのです。父はホンダのオフィスで仕事をして、ヘリコプターで本田宗一郎氏と現地へ赴き、図面や大規模な地形モデルでサー
              キットをデザインしました。安全設備や建物、特別観覧席なども鈴鹿専用の仕様を作成したのです。それは父が設計したホッケン
              ハイムやゾルダ一、ハラマなどのコースでしてきたことと同様、正確なものでした。資料にするために塩崎氏が靴べらで、ニュル
              ブルクリンクの路面アスファルトをこすり落としたという話も、信じられません。靴べらではアスファルトを完全にこすり落とす
              ことなど、できません。父は鈴鹿での仕事に対し、多額のお金を受け取りました。もし父が設計者でないなら、ホンダはなぜそん
              なことをしたのでしょうか。日本滞在中のお金は、すべてホンダが支払いました。それはなぜでしょうか。オランダ国立自動車博
              物館に収蔵されている鈴鹿サーキットのオリジナル設計図面には、父の署名が入っていたはずです。塩崎氏の署名ではありませ
              ん。鈴鹿サーキットの設計に加えて、本田宗一郎氏は将来のホンダのためにオランダを訪れ、ベルト駆動式自動変速機の可能性を
              探るために父を頼り、DAFの工場を訪れました。父はその仲介をしたのです。さらにホンダの第一期F1活動が始まった頃、ホ
              ンダの研究用に必要なクーパーF1シャシーを手配し、ジャック・プラパム氏を紹介したのも父でした。ヨーロッパで行なわれた
              最初のホンダF1チームの極秘テストはすべて、オランダ・ザンドフールト・サーキットで行なわれました。チーム発足の記者会
              見も同地で、父によって開催されたのです。これらはいかに父と本田宗一郎氏の関係が密接であったかを証明しているでしょう。
              父は1995年に亡くなりました。私はこれからも彼の名誉を守っていきます。
              ―2012年10月ジョン・フーゲンホルツJr.

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